「藤次郎夜話 =怪談蛍が淵=」  …およそ、子供の頃の約束は当てにならない、ましてや子供同士の約 束という物は…  私はその日自分のベットから落ち、頭を強く打って目が覚めた。しか し、その割には目覚めが良い。体のどこにも朝のけだるさを感じなかっ た。  洗面所に行き、顔を洗いながらさっきまで見ていた夢を思い出してい た。  …子供の頃、住んでいた東京は大田区の町並み、小さな町工場が建ち 並ぶ街…狭い通りに道にまではみ出して置かれた工作機械。電気溶接の 飛び散る火花、旋盤から甲高い音と共に景気よく飛び散る切り粉、プレ ス機械の重々しい音など、それらが子供の頃からの見慣れた光景…  プレスの打ち殻,旋盤の切り子,捨てられた線材屑などは私達町工場 の子供達の玩具になっていた。  一日中鳴り響くそれらの機械音、工作機械に使用される様々な種類の オイルの匂いの中で育ってきたのであった。  …その町の裏路地を駆け抜けていく少女、それを追いかけて行く私、 しかし、私の足は重くてなかなか前に進まない。少女はクスクスと笑い ながら、私の前をもう一息手を伸ばせばその細い肩をつかめそうな位置 にいて、私の前を走っていた…やっと、飛びついて抱きしめたと思った 瞬間、床に落ちていた…  よほど強く打ったのか、気が付けば、瘤が出来ていた。  「…あれは、誰だったんだろう?見た覚えがあるのだが…」  と、夢の中の少女の事を不思議に思っていると、間もなく友人が車で 迎えに来た。これから友人と木曽路に旅行するためである。  東名高速道路を名古屋に向かって西に走り、小牧JCTで中央自動車 道を北上する。中津川ICで高速を降り、国道19号をまた北上する間 もなく中山道に入る。  お盆の時期であり、道路はどこも混雑していた。  途中、馬籠,妻籠の宿場町を観光した、観光地然とした馬籠に比較す ると妻籠の宿場町は時代を感じさせ、タイムスリップしたような錯覚に 陥る。今はお盆であり、馬籠,妻籠の町には家の軒先に家紋の入った盆 提灯をつるしていた。  妻籠の宿場町に宿をとりたかったのだが、観光シーズンとお盆が重な ったため、妻籠の宿場町よりかなり山に入った村に宿をとる以外になか った。しかし、宿はそれでも時代を感じさせるいい宿であった。  明るい内についたので、夕食までの間、近所を散策していると、  『ここの小川で蛍を見ることが出来ます』 と書いてある看板を見つけた。場所は宿のある村のはずれの小川に架か る橋。  その夜、泥酔している友人を残して、酔った足で、「蛍を見に行って きます」と、宿の人に告げて浴衣のまま外にて出た。  村はずれの小川に架かる橋まで行くと、数人の人が蛍を見に来ていた。  橋の上が眺めが良さそうだったが、アベックばかりだったので、私は 遠慮して土手沿いを歩こうと向きを変えた。途端、踏み出した片足に掛 かる地面の感覚が無くなり、次の瞬間私は落下の感覚と斜面を転がって いる感覚を感じた。  落ちる感覚が無くなると同時に冷たいヒヤリとした感触を頬に感じた。 酔いが回っているせいか痛みはあまり感じられなかった…  「いてて…今日はこれで2度目だぁ…」 と独り言を言った。  橋の上からは、  「何かが落ちたみたい」 と言う声が聞こえたが、私の事を真剣に気にかけてくれるアベックは居 なかった。  橋のたもとは完全に真っ暗であった…もとより、蛍を観賞するために 橋の辺りの照明も足下が微かに判るくらいに暗くされていた。  土手を上ろうと、手探りで辺りを探っていたら、  「そっちじゃないわよ!」 と、背後から声をかけられた。  ギョッとして振り返るが、目が暗闇に慣れていないせいで、何も見え ない。  「…だっ誰?」 と問いかけると、相手はその問いに答えずに、  「そっちへ行くと、小川に落ちるわよ。こっちへ、いらっしゃい」 と言った。声の質から察するに若い女性の様だった。  「何も見えない」 と言うと、  「じゃぁ、これなら判る?」 と言うと、目の前にぼぉっとした明かりが点滅を始めた。  「こっちにおいで、静かにね。あなた、蛍の愛の語らいの邪魔をして いるのよ」 と、多少言い聞かせるような事を言って、  「ほら、よく言うでしょ『人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて何 とやら』…ってね。」 と、言いながら今度はクスクスと笑った。  近づくとぼおっとした明かりは、ほおづきの中に蛍を閉じこめた物で あった…しかし、女の顔は判らず、人らしい者が居ることだけが判るだ けであった。  「ほぉ…ほおづきの中に蛍が…懐かしいなぁ…昔お婆ちゃんがよく作 ってくれたよ」 と彼女がかざしているほおづきを覗き込みながら言うと  「貴方、この土地の人じゃないわね」 と鋭い口調で言った。その言葉に少しハッとしたが、意に介さないよう に  「判る?」 と平静を装って言うと  「…うん、言葉遣いが…それに、ここではほおづきに蛍を入れるなん て私くらいしかしないもの…」 と今度は少しオドオドした口調で答えた。今度は攻守を変えて  「あんたも、よその土地の人?」 と私が聞くと  「子供の頃、両親の仕事の関係で日本中渡り歩いたわ。でも、元々こ の土地の生まれよ。このほおづきに蛍を入れるのも子供の頃、友達に教 わったの…」 と彼女は思い出に浸っているような口調で言った。  「ふぅん」 と言ったきり、二人は無言になった…と言うより、この先の言葉が出て こなかった…  暫く橋のたもとで二人並んで蛍の乱舞を見ていた。  「…さて、この子も放してあげないと…」 と彼女はおもむろに言うと、がさがさとほおづきの袋を破る音がしたと 間もなく、ハタとその手を止めて  「そうだ、貴方帰り道判る?」 との彼女に問いに、  「いや…全然…でも、この土手を上ればいいんだろ?」  私は自分が落ちてきた土手を軽く見積もっていた為に単純に答えた。  「この土手は、高いし急で滑りやすいから登るの大変よ…それじゃぁ、 この子を放すのはもうちょっと後ね…ついていらっしゃい」 と言って、衣擦れの音がしたと思うと、目の前を何かが横切った雰囲気 がした。  「ほら…こっち」  彼女の声が自分の右手からではなく、左手からするのをはっきり感じ、 その方向に振り向くと彼女が持っているほおづきに閉じこめた蛍の明か りがあった。  蛍の明かりに従って歩いていたが、暗い中で彼女が私の事を警戒して か無言で居るために、その間、寂しさが募って手持ちぶたさになって、 私はある話をし始めた。  「俺のお婆ちゃんの故郷では、お盆になって蛍が飛び交う時期になる と、蛍祭りと称してね、村のはずれを流れる小川の両岸に年頃の男女が 別れて集うんだ」  私の話に彼女が何も反応しないのを気にせず言葉を続けた。  「そして、小川を渡る橋の上で蛍を追いながら女達が舞い踊るんだ。 男達は橋を囲んで、手に手にある者は花、ある者はかんざし、またある 者は櫛などの贈り物を橋の上の女達に差し出すんだ。女達は気に入った 男からの贈り物を取り上げ、髪に挿して橋を降りて贈り物を贈った男と 二人っきりになるんだ」  「へぇーーー」  ようやく、彼女も話しに興味を持ったようだ。  「俺の爺ちゃんは、機織り機械の職人でね、あちこち旅をしながら機 織り機を直して回る仕事をしていて、たまたま祭りの日に、その村に来 たんだ。そのとき、爺ちゃんは泊めてもらっていた村の長者の娘に一目 惚れしてね、蛍祭りの夜に村の若者に混じって橋の袂に行ったんだ」  「それで?」  「それで、蛍を捕まえてほおづきの中に入れて差し出したところ、見 事村の長者の娘が取り上げてくれてそれが俺の爺ちゃん婆ちゃん…」  「へぇ。素敵ねぇ」 と、彼女は感心しているようだ。  「俺が子供の頃、今の時期になると田舎のお婆ちゃんがほおづきと共 に蛍を持ってきてくれてね、よくそれを作ってくれたよ。さっきの話を しながらね…」  「ふうん」  「ああ、もう一つ」  「なに?」  「小学校の頃、好きな子が居たんだ…初恋って奴かなぁ…」  他人…しかも女性の前で別の女の子の話…ましてや初恋の話なぞする 物ではないのは判っていたのだが、なぜか彼女の前ではこの話をしたく てしようがなかった…  「ねぇ…どんな子?」  彼女は興味津々で聞き返してきた。  「小学校頃、転校してきた子でねぇ、珍しい名前だから今でもフルネ ームは忘れない。その子は父親の仕事の都合で日本中を回っているだ… 明るくてねぇ…いつも笑顔を絶やさない子なんだ。今思えば、転校が多 かったから、虐められない為の処世術かなぁ…」  「そっそんなこと無いと思う…」  「えっ?」  なぜか何か期待するような感じで私は聞き返したが…  「いっいや、私も日本中渡り歩いたから…」 と彼女がぼそりと言った。  私は気にも留ずに  「…そうみたいだね」 と言って話を続けた。  「俺の住んでいる土地では、昔から住んでいる土着の人達と社宅やア パートが多いのでよそから来た人達とはっきり分かれていてね、子供同 士でもよく二つに分かれて喧嘩していたよ…俺は土着の人間だから…で も地元の人達は別にどうとも思っていなかったんだ。勝手に境界線引い ていたのはよそから来た人達なんだ…」  「そっそう?」  「でもね、あの子のお母さんは積極的に地元に溶け込もうとしてね、 その影響か、あの子も積極的に俺達地元の子に友達になろうとしてきた よ。俺が転校したての頃に友達になって…」 と言ったところで、何かが頭の中をよぎった…しかし、その詳細は判ら なかった…  私は多少気になったが、話を続けた。  「よく町の中を手を引いて連れて歩いたよ。俺の居る町は東京の大田 区の町工場街でね、狭い迷路のような道が沢山あって駄菓子屋や神社な どにね…」  …などと、思い出す子供の頃見た光景を思い出すままにつれづれに語 った…  「でもね、しばらくしてね、またその子が転校すると言うので酷く落 ち込んでいてね…そんな折りだった、お婆ちゃんがいつものように蛍や ほおづきを持って来たんだ…落ち込んでいる俺を見て訳を聞いてくれて ね。いつものようにほおづきに蛍を入れて俺に持たせたんだ『ちゃんと お別れをお言い、好きならちゃんとお言い』って…」  「で?」  「蛍を持って出発する直前のその子の居る社宅に行って、その子に会 ってお別れを言って蛍をあげたんだけど…その先がなかなか言い出せな くて…後ろから両親に急かされるその子に向かって言ったんだ…『待っ ててね、いつか見つけに行くから…約束だよ』ってね」 と、言った瞬間、その子の顔が頭に浮かんだ…それは、私に後ろから抱 きしめられて驚いたように振り返る少女の顔がはっきりと浮かんだ…そ れがなぜか私の前方を歩いている彼女振り返った(…と思えた)顔と重 なった。  「紅珠…」 と私は、小声で呻くように呟いた。が、彼女には聞こえなかったらしい …  「…それじゃぁ、その人は今でも待っているのでしょうねぇ…」  「いや、もう忘れているさ。子供の頃の約束なんて当てにならない事 が多いから…その後、一度あの子から手紙が来たけど、俺が筆無精でな かなか返事が出せずにいて、やっと出したら不在で帰ってきてしまった …申し訳ないことをした…だから嫌われたかもしれないなぁ…俺は今で も時折思い出しているけど…」 と、私はうつむき、首を横に振って答えた。  「ううん、その人はきっと待っていると思うわ…だって、今でも貴方 が探しているのだから…」 と、彼女はムキになって否定した。しかし、ハッとして  「…ごめんなさい…」 と、ポツリと言った。  「いいや、君が謝る必要はないさ」  …また、二人は無言になった…  「さぁ、土手の上に出たわ。後は後ろの明かりがする方に行けば村に 戻れるわ。じゃあ、ここでお別れね。今度は落ちないでね」 と、クスクス笑いながら言った。そして、  「あなたもご苦労様」 と、言いながら彼女はほおづきの袋を破っているようだった。  「ほら、飛んでお行き」  目の前を蛍が飛んでいくのが見えた。暫くその蛍を目で追っていたが、 ふと気がつけば、目の前にいるはずの彼女の気配が消えていた…  「おっ…おい、きみ」  慌てて声をかけたが、答えは返ってこなかった。  彼女の言う通り村に戻り宿に戻ると、宿の人が私の姿を見て仰天して いた。  明るいところで改めて見ると、私の着ていた浴衣は泥だらけであちこ ち裂けていた。そして両手両足の擦り傷,切り傷からは血が滲み、額を 打ったらしく、額から血が流れていた…  傷の手当をして、布団に横なった途端、体中の傷が痛み出した。  …翌日、昨日の彼女にお礼が言いたくて、宿の人にそれとなく聞いて みたが、この村にそんな若い娘は村はもとより、付近の村にも居ないと 言う…  取り敢えず、昨日別れた土手の所まで行ってみることにした。  昼間改めて土手を歩いて見ると、以外に土手の高さがあることに背筋 が寒くなった。  やがて、下の小川から土手の上に達する所に行き着くと、そこは村は ずれの墓地であった。  何気なく墓地の中の一つの墓に目が行った。  そこには、真新しい裂いたばかりのほおづきが一輪置いてあった。そ の墓には「**家代々の墓」と、刻まれてあった。ありふれた名字であ るがなぜか気になった私は近寄って墓石の横の墓碑を見た。  …そこには、「俗名**紅珠 昭和XX年 二十歳」と書いてあった…  「紅珠…紅珠!…お前、まさか…でも、同姓同名だし、歳も同じだし こんな珍しい名前は滅多にいないし…本当に紅珠なのか?」 と、驚いて半分叫ぶような口調で言うと、それまで風一つなかった墓地 の木々がざわざわとざわめいた。それを見て、私は悟り  「…そうか、紅珠…お前、ここにいたのか…長かったなぁ…お前を見 つけるまで…ここで待っていたんだなぁ…」 と、私は顔をしわくちゃにして泣いた。そして  『ううん、その人はきっと待っていると思うわ…だって、今でも貴方 が探しているのだから…』 と彼女が言った言葉を思い出した。  私は、名も判らない草花を手折り、墓前に添えると  「今は、これで勘弁してくれ」 と言った。そして涙を拭い鼻水をすすりながら  「…やっぱり、子供の頃の約束は当てにならねぇなぁ…やっと見つけ たが、俺は会いに行くと約束したのは生きたお前だ…あの世にお前を捜 しに行くのに、後何十年かかるやら…なぁ…」 と言い聞かせるように言うと、立ち上がり  「来年、またくるよ。今度はちゃんと線香と花束持って…」  墓地を後にする私に優しい風が後押ししていた… 藤次郎正秀